占春園のいきもの

初めに
東京の営団地下鉄の丸の内線の茗荷谷駅の近くにある、筑波大学の跡地に付属小学校があり、占春園があります。
東京教育大学付属小学校の生徒の頃は毎日池の魚を捕まえて、先生に教わりながら調べていました。
最近実家をリフォームして戻り、たまに散歩に行くようになりました。
子供の頃は分からなかったのですが、動植物共にとても多くの種類がいるようで、これまでに見たことのない種類をよく見かけます。
ネット上を調べても詳しい紹介が無いようなので、紹介していきたいと思います。
2023/07/27

占春園再生プロジェクト

2017年に荒廃し立ち入り禁止となっていた占春園を日本庭園としてよみがえらそうというプロジェクトが始まり19年7月に完成式典が行われたそうです。
池のかいぼり・外来種の駆除、日本庭園らしくない木の伐採、嘉納治五郎の銅像の周りの整備、門の設置など。
現在は筑波大学付属小学校の自然観察の場であり、区民へ公開され誰でも入ることができます。「茗渓」(筑波大学、東京教育大学、高等師範同窓会、季刊会報) 2019年1101,1103号から
池のかいぼりについて
JIBUNマガジン 文京区2019年03月号 vol.44
https://jibunmedia.publishers.fm/article/19961/
完成は開園から360年目に当たっています。

概要
文京区のHPから転載させていただきました。
https://www.city.bunkyo.lg.jp/bosai/midori/kuritukouen/toritsukoen/sensyuen.html
占春園は都市公園ではありませんが、都市公園である「教育の森公園」に隣接するとともに、合わせて都市計画公園である「文京中央公園」に含まれています。筑波大学附属小学校の自然観察の場ともなっていますが、一般区民にも開放されています。ここは、明るく広々とした教育の森公園とは異なり、斜面と低地を利用した園内は様々な樹木がうっそうと生い茂り、ササに覆われた樹木の下には細い階段状の園路が池に向かって下っています。
中島のある池の回りには大木が生い茂り、静かな雰囲気を漂わせています。
東側の低地にある広場にはみごとな枝ぶりのカツラが3本植わっています。また教育の森公園側の入り口近くの通路からは、筑波大学の敷地にある日本ではめずらしいシロマツやダイオウショウを見ることができます。
ウィキペディアからも転載させていただきました。
概要
松平頼元の子頼貞は陸奥国守山藩主として2万石を領し、大学頭となった。園内の1746年(延享3年)に建てられた碑文は、「我が公の園は占春と名づく。その中見る所は、梅桜桃季、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景有らざるは莫し。」とある。当時は江戸の三名園(青山の池田邸、溜池の黒田邸)の一つであったという。池を落英池、橋を折柳橋という。江戸時代にはホトトギスの名所としても知られていた。
1903年(明治36年)に東京高等師範学校(現在の筑波大学)が湯島からここに移ったことにより、占春園は校地の一部となった。筑波大学附属小学校の自然観察園として管理されている。
現在、占春園は、筑波大学附属小学校の自然観察の場ともなっているが、一般区民にも開放されている。ここは、明るく広々とした教育の森公園とは異なり、斜面と低地を利用した園内は様々な樹木がうっそうと生い茂り、ササに覆われた樹木の下には細い階段状の園路が池に向かって下っている。中島のある池の回りには大木が生い茂り、静かな雰囲気を漂わせている。東側の低地にある広場にはみごとな枝ぶりのカツラが3本ある。また教育の森公園側の入り口近くには日本ではめずらしいシロマツやダイオウショウがある。嘉納治五郎の銅像も園内にある。
   
入り口手前の案内 進むと左側は付属小学校の門、右は占春園へ、再生プロジェクトで建てられた門

教育の森からの入り口近くの、カツラ(桂)、シロマツ(白松)、ダイオウショウ(大王松)

落英池   嘉納治五郎銅像 ハナヒョウタンボク(春)
開園時間
4月から9月の期間は、8時〜19時まで
10月から3月の期間は、8時〜17時まで

アクセス
所在地:文京区大塚3-29

地下鉄丸の内線「茗荷谷」駅徒歩5分



2023年
7月27日
色々な種類のトンボがいました。
モツゴ?の赤ちゃんが池につながった水たまりに居ました。天敵を避けているようです。


5月
アメリカザリガニはまだ小さいです。





アオサギ 2023/05

カモ 2023/05


昆虫

コミスジ 2023/05


魚など
アメンボ
アメリカザリガニ
ミシシッピーアカミミガメ
モツゴ
ヌマエビ


セミ 抜け殻 2021
ツクツクボウシよりも小さい蝉です。

とんぼ
オニヤンマ 2023/07
キイトトンボ 2023/07
全身黄色に見えたのは、「キイトトンボ」のようです。やや小さめでしたが、アカトンボの黄色っぽいのかと思ったらイトトンボだそうです。

ギンヤンマ
コシアキトンボ 2023/07

シオカラトンボ 2023/07
ノシメトンボ 2023/07
初めて身近で見ました。両端の模様から「ノシメトンボ」と思われます。

ムギワラトンボ 2023/07
リスアカネ 2023/07
我が家の庭で時々見かけるようになっています。


チョウの図鑑

岐阜聖徳大学のHPから転載させていただきました。
http://www.ha.shotoku.ac.jp/~kawa/KYO/SEIBUTSU/DOUBUTSU/01tonbo/index.html

分類の抜粋
上記HPを基に見ることのできた種類の箇所だけを抜粋し表にしました。
近くで普通に見られる種類は未確認でも入れてあります。

アゲハチョウ科アゲハ、キアゲハ、クロアゲハ、アオスジアゲハ
シロチョウ科モンシロチョウ、キチョウ
テングチョウ科

マダラチョウ科アサギマダラ
タテハチョウ科ツマグロヒョウモン、キタテハ、コミスジ
ジャノメチョウ科

シジミチョウ科ヤマトシジミ
セセリチョウ科イチモンジセセリ

2023/07/30



トンボ図鑑

岐阜大学、岐阜聖徳大学のHPから転載させていただきました。
http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/html/kyo/seibutsu/doubutsu/01tonbo/index.html
http://www.ha.shotoku.ac.jp/~kawa/KYO/SEIBUTSU/DOUBUTSU/01tonbo/index.html
トンボのなかまはトンボ目に分類されます.
このなかまは大きな4枚のはねと大きな複眼をもつことが特徴です.
分類学上は、有翅亜綱のなかのトンボ目として位置づけられていて、
オスの外部生殖器、尾部附属器、はねの形や脈のようすから、均翅亜目、
ムカシトンボ亜目、不均翅亜目の3つのグループに分けられています。

分類の抜粋
上記HPを基に見ることのできた種類の箇所だけを抜粋し表にしました。
写真もまだ用意できないものについては上記HPから転載させていただいています。*
目、科、属

均翅不均翅亜目きんしふきんしあもく
(ムカシトンボ亜目)


不均翅亜目ふきんしあもく

ムカシヤンマ科 Petaluridae

オニヤンマ科 Cordulegastridaeオニヤンマ*
ヤンマ科 Aeshnidaeギンヤンマ*
サナエトンボ科、ヤマトンボ科、エゾトンボ科

トンボ科

シオカラトンボ属シオカラトンボ(ムギワラトンボは雌) *
*
アカネ属Sympetrum ナツアカネ、アキアカネ、
リスアカネ、ノシメトンボ
*
*


コシアキトンボ属Pseudothemis コシアキトンボ
Pseudothemis zonata
均翅亜目きんしあもく

イトトンボ科

キイトトンボ属Ceriagrion キイトトンボ
Ceriagrion melanurum
*
モノサシトンボ科

アオイトトンボ科





2023/07/30



占春園の歴史と地理


占春園、東京高等師範学校、東京教育大学、教育の森公園のウィキペディアなどから作成



1659万治2徳川光圀から松平頼元の上屋敷に下賜、庭園が「占春園」
1661寛文1松平頼元、額田藩主
1700元禄132代松平頼貞、守山藩主、大学頭
1746延享43代頼寛、守山藩邸碑文
1827文政10水戸8代斉修公、松平大学頭屋敷に避難、翌春占春園の景観を讃える
1854嘉永7小石川絵図に「松平大学頭」


明治維新後個人所有
1872明治5師範学校創設、翌年東京師範学校、1886高等師範学校に改称
1873
練習小学校を附設、付属小学校設立
1893
嘉納治五郎校長に(-1916)
1896
附属学校小学科を小学校に分離
1903明治36文部省が高等師範学校用地として買い上げ、移転
1929昭和4東京文理科大学付属となる
1949昭和24新制東京教育大学
1958昭和33嘉納治五郎銅像再建
1974昭和49「白松」が北京市長から贈られる
1978
筑波に移転し筑波大学、教育大学閉学、文京区に払い下げ
1986/10/13
文京区立教育の森公園
1989平成2社会人夜間大学大学院開設


筑波大学付属小学校の自然観察の場
2017/11-19
占春園再生プロジェクト(開園360年)




 


「我が公の園は、占春と名づく。其の中観る所は、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景有ら不るは莫し。---。延享丙寅(5年)春3月 岡田宜汎奉撰、宇留野震謹書

以下は下記から転載させていただきました。
石仏散歩
現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。
137 文京区の石碑-13-占春園碑その2(大塚3-29)
https://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/9017463280eb21245408070e9bf14dc6
我公之園名占春。其中所觀、梅櫻桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓秋月冬雪、凡四時之景莫不有焉。而名以占春者何也。園舊有古櫻樹、蔽?数丈。春花可愛、夏蔭可憩。先君恭公之少壮也、馳馬試剣、毎繁?於此樹而憩焉。因名云駒繋。至荘公之幼也、猶及視之。於是暮年、花下開宴、毎会子弟、必指樹称慕焉。我公追慕眷恋、専心所留、遂繞此樹、増植桜数百株、花時会賓友、鼓瑟吹笙、式燕以敖、旨酒欣欣、燔炙芬芬、?核維旅、羽觴無算。豈啻四美具乎哉。物其多矣、維其嘉矣。偕謡既酔之章、且献南山之壽。我公称觴、顧命臣宜汎曰、是瞻匪亦所為。後世子孫、徒為游楽之場是懼焉。書於石。宜汎捧稽首曰、桑梓有敬、燕胥思危。誦美有辞、陳信無愧。謹寿斯石。万有千載、本支百世、永承景福之賜時延享丙寅春三月                岡田宜汎捧撰   宇留野震謹書
 占春園は春爛漫たる桜樹を始めとして四時の美をそなえた名園で、杜鵑も巣を作るという野趣に富み、冬春の候には多くの鴨が園地に聚まり、青山の池田邸、溜池の黒田邸と合わせて江戸の三名園と称せられたという。本学は、その史実をここに記して占春園を永久に記念するものである。
                 昭和52年1月  東京教育大学

なんと占春園ではなく、筑波大入口前にあった。
旧守山藩邸碑文2
東京教育大学の大塚の敷地は、その昔、水戸家の分家である守山藩主松平大学頭の上屋敷であった。文政十年(西暦1827年)に小石川水戸中納言の礫川邸が類焼し、当主8代
目の斉修公(水戸烈公の兄)は夫人峰姫と共に駒籠邸に難を避け、そこから大塚吹上の松平大学頭の屋敷に移った。
これを迎えた大学頭頼愼公はよく斉修公(天然子)を待遇したので、公はその厚意を謝し、吹上邸の庭(占春園)の景観を称えて詠んだのがこの碑文で格調たかいものである。
    丁亥之春、礫川邸罹災。以
     幕府之命、與夫人峰姫遷居於
     守山侯吹上邸。々中多山水之
     勝。園之東有梅林。明年、春
     遊于林中賞花、頗忘舊歳之憂
     因賦一律 以?幽懷云
      吹上邸中山苑東 幾株梅樹遠連空
      落英渓畔千林雪 斜月樓頭一笛風
      疎影婆娑留舞鶴 清香馥郁伴詩翁
      人間何處無春色 春色須從此地融
                  天然子
             昭和52年1月   東京教育大学
小石川の邸宅が火災に遭い、ここ守山藩の吹上邸に移ってきたが、春になって、林中にあって花を愛で、頗る去年の憂いを忘れることが出来た、というのだから、占春園の景観はそれほど見事だったということになる。

守山藩 ウィキペディアから転載させていただきました。
守山藩(もりやまはん)は、陸奥国南部(磐城国)田村郡(現在の福島県郡山市)に存在した藩。水戸藩の御連枝で支藩である。藩庁は守山陣屋である。また、常陸国にも所領を有し、松川陣屋を置いた。
概要
水戸藩祖の徳川頼房の四男、徳川光圀の異母弟である松平頼元が、寛文元年(1661年)9月に常陸国額田に2万石を内分分知され、額田藩を立藩したのが起源となる。守山藩の正式な始まりは、第2代藩主松平頼貞の代である元禄13年(1700年)9月25日、第5代将軍徳川綱吉の命により新知行地として守山2万石を与えられたときである。歴代藩主は江戸小石川の藩邸に定住し、参勤交代を行うことはなかった。藩政においても水戸藩の監督を受ける立場にあった。
守山藩主家の松平家(守山松平家)は藩祖の頼元以来、明治維新後に知藩事の頼升が養嗣子の頼之に家督を譲って隠居するまで、7代200年余りにわたって代々男系で父から子へ安定的に家督が相続された。また頼貞の息子は、守山藩主を継いだ頼寛の他に、頼恭が高松藩(高松松平家)を、頼済が常陸府中藩(石岡松平家)をそれぞれ継いでおり、これらの水戸藩連枝も以後は幕末近くまで頼貞の血筋で続いた。
幕末期の元治元年(1864年)、武田耕雲斎ら天狗党の乱のとき、守山藩でも乱に関わった者が多数いたため、藩士の多くが処罰されている。戊辰戦争のときには 奥羽越列藩同盟に参加したものの、新政府軍の北上の前に戦う事無くして降伏。明治2年(1869年)の版籍奉還で最後の藩主松平頼升は守山藩知事となる。明治3年(1870年)、松平頼之が藩庁を常陸松川に移したため、守山藩は松川藩と改められる。翌明治4年(1871年)の廃藩置県で松川藩は廃藩となり、その所領は松川県となる。その後、磐城国内の旧藩領は白河県・磐前県を経て福島県に編入され、常陸国内の旧藩領は新治県を経て茨城県に編入された。

松平 頼貞 ウィキペディアから転載させていただきました。
松平 頼貞(まつだいら よりさだ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。常陸国額田藩2代藩主、のち陸奥国守山藩初代藩主。官位は従四位下・侍従、大学頭、左近衛少将。水戸徳川家初代の徳川頼房の孫。1664-1744
生涯
寛文4年(1664年)1月25日、額田藩初代藩主・松平頼元の長男として誕生。元禄6年(1693年)、父の死去により家督を継ぐ。
元禄13年(1700年)9月25日、額田から陸奥守山に移封された。元文4年(1739年)、尾張藩主・徳川宗春に対して蟄居を伝える使者を務めた。寛保3年(1743年)10月28日、家督を三男・頼寛に譲って隠居する。翌延享元年(1744年)8月3日に死去した。享年81。

大学頭 ウィキペディアから転載させていただきました。
(だいがくのかみ) - 律令制において官吏養成を担う機関である大学寮に置かれた官職。従五位上相当、定員は1名、唐名は「国子祭酒」「祭酒」。
大学頭(だいがくのかみ) - 江戸幕府に仕えた儒官の長の役職として、武家官位の大学頭に任じられた。元禄4年(1691年)、林家三代の林信篤(鳳岡)が初めて任命され、以後代々、林家が世襲したため林大学頭とも称した。昌平坂学問所の管理運営、外交などを所掌した。

東都小石川絵図(江戸切絵図)国立国会図書館デジタルコレクション、部分

嘉永7[1854]/安政[4][1857]改
https://dl.ndl.go.jp/pid/11545775/1/2
左上の松平大学頭、が占春園の敷地。下の右下がりの太い道は「小石川大塚吹上」現春日通。その上(北)に氷川神社と林大学頭。間が千川、「此の川上猫股橋」(氷川下に石碑あり)。東並びが「小石川御薬園」(現植物園)、右(東)に伝通院・



2018年「文京区生物多様性戦略」から転載

 

2018年「文京区生物多様性調査」から転載




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